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コロナのまっただ中で犬死にしないための方法序説⑦

 8月もアッという間に過ぎていき、今年の夏もいよいよ終わりである。「なんて夏だ」と言いたくなる。一体何をしたのだろう。7月31日の刑各のテストの日に、『規範論と理論刑法学』の原稿を、成文堂書店2階でS崎さんに手渡すと共に、メールでUSBに入っているウェブ原稿も送信した。これは、おそらく私の最後の論文集となるだろう。絶版の『規範論と刑法解釈論』が15章だったのに対して、今度のは34章もあるから、ずっと厚くなることだろう。
 その後は、夏の祭典を終わらせ、ロー入試の祭典も無事終了した。その間、秋学期の刑法総論のために、パワポを作成し続け、もうそろそろ完成する。秋学期は、「法批判への招待」という科目で、2回ほど修復的司法について話すので、そのパワポ作成と、「ことばと法、社会」という科目で、1回だけ言語行為論と刑法について話すので、そのパワポの作成に着手したいと思う。
 試験といえば、成績発表があり、みんな悲喜こもごもだろうが、自分の学生時代を思い出すと、そんなに成績を気にしていなかったように思うのだが、どうだろうか。単位は取れればいいのであって、優だとか良だとか、少なくとも語学クラスの仲間は気にしていなかった。優をたくさんとっていたのは、すべての授業に出席していた女子学生ほか数人だけであり、司法試験を目指していた4~5人の成績は惨憺たるものだった。それでも、その連中は、ほとんど卒業後司法試験に合格した。企業に行く連中も、成績はあまりよくなかったが、面接で死刑廃止論を演説して、一流企業に入った奴もいたように記憶している。
 時代が違うのでは、という「時代の責任論」を持ち出す人もいるだろうが、そうだろうか。学部の成績とその後の人生との相関関係をだれか調査してくれるといいのだが。
 こちらは、学部時代あまり勉強しなかったから大学院に進んだのである。この先どうなるかなんて誰も分からない。「一寸先は闇」なのだから、もっと大らかに笑い飛ばして大学生活を送ってもらいたいと思うのだが。
 さて、当面は、某文学賞に応募するため、題材を収集する必要があり、しばらく妄想の世界にどっぷり浸かることにしよう(笑)。

 ジャーニー to  エンプチー
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コロナのまっただ中で犬死にしないための方法序説⑥

 刑法奇行を長い間書けなかったのは、「コロナ後の世界」がいまだ到来せず、依然として「コロナのまっただ中」状況であることが大きな理由である。したがって、タイトルも元の続きということにした。
 春学期のオンライン授業そしてオンライン試験も何とか終わり、現在は、「真夏の祭典」中である。ずっと前の「刑法奇行」においても採点についての記述が多いのは、枚数が多く、やってもやってもなかなか減らないという状況がイライラを純粋惹起することはいうまでもないが、今回は、コロナ状況がそれを倍加させるわけである。学生諸君も、こうしたイライラ状況にあることは間違いない。世界中の人たちがイライラ状況にある。
 こうしたイライラ状況の中で、どうしたら犬死にしないかを、やはり真剣に考える必要があるだろう。ずっと昔、大学時代、1年の秋から学費値上げ反対の全学ストになり、たしか3年の時もストだったかと思うが、よく覚えていない。いずれにせよ、4年間中2回レポート試験だったように思う。それでも、とくにどうってことはなく、1年のときは、友人とお茶の水の「アテネフランセ」に行き、多くの有閑マダム達(死語か?)のなかで、フランス語の会話を習っていた。たしか、男性は友人と私だけだったような記憶がある。授業はなく、とにかく自由であり、ほとんど理解できなかったが、我妻栄『民法総則』、団藤重光『刑法綱要総論』などを読んでいた。分からないから、何度も読む。あるときは、「行為とは人格の主体的現実化としての身体の動静」という箇所に線を引き、お経のように唱えたりしていた。
 というわけで、当時は与えられた状況の中で、それなりに楽しくやっていたような気がする。われわれは、「決定されながらも決定していく」ことしかできないわけである。そうだ、あの「青春の光と影の時代」を思い出そう。どんな状況であろうと、それなりに楽しく、元気に進むしかないのである。
 この状況において、刑法判例百選の原稿をやっと出したし、『授業中刑法演習』という奇本の分担原稿も出した(今度は、3人の若手に手伝ってもらい、私は「編」である。「変」ではない)。現在は、これまでの規範論の論文をまとめて、『規範論と理論刑法学』といタイトルで、実は、『規範論と刑法解釈論』の新版を出すので、ほぼ原稿は整いつつある。『規範論と刑法解釈論』はなんと絶版であるが、これは売れたというよりも、売れない本という予見可能性から発行部数がもともと少なかったことがその理由である。大分厚い書になりそうである。
 コロナ状況がどうなるかはまったく分からないが、今与えられた状況で、暗中模索にあれこれやるしかないではないか。そう決めたので、ボチボチ真夏の祭典に取りかかることにしよう。しかし、ボチボチやってると終わりが見えないし、この暑さである。祭典の実行の着手時期と既遂時期があまりにも離れているような気がして、またイライラ状況になる。これが円環的状況というやつかもしれない。

ジャーニー to 遅すぎた祭典の実現
 
 
 

コロナ後の世界で生き延びる道を教えよ②

 とうとう梅雨の季節まで来てしまった。オンライン授業も1ヶ月ほど経過し、まあまあうまくいっている方だと思う。週3回のZoom授業は、結構忙しいが、いろいろな方の協力があり、新しいことの発見伝である。たとえば、ブレイクアウトセッションなんて、ついこの間まで未知の世界であったが、いまや、ゼミでは、時間中に2回のセッション(検察と弁護にグループ分け)を行うことができるまで自己成長した。今週の土曜日は、Zoomを使って、修復的司法の研究会を行うことになっている。まさにZoom対話である。法社会学会はZoomで開催したとのことである。某犯罪学の授業は、500人を超えると思うが、Zoom授業で行っている(カオスらしいが)。今年の流行語大賞は、Zoomかもしれない。
 オンデマンド動画の刑法各論も、背任罪まで終了しており、今、中断している状態である。だんだん飽きてきたのかもしれない(笑)。やはりオフライン授業が一番である。秋学期は絶対にオフライン授業を希望したいのだが、コロナの状況がどうなるか、誰も分からないのである。
 「新しい日常」とは何だろうか。昔、学生紛争の時代に「日常性の打破」が流行語大賞であった。コロナによって、「日常性の打破」が到来していたわけであるが、あれは日常性が存することが前提の論理であった。コロナによって、まさに、日常性というものがいかに大事だったかを思い知らされる。「普段の生活」の延長線上に人生があるのだと。日々淡々と生活できることが一番幸せであることを実感する今日この頃である。たしかに、激動の人生、波乱の人生を歩む人もいるだろう。しかし、それらの人々も日常の平凡な生活を基盤としているのである。コロナは、その基盤自体を破壊するものであるだけに、憎たらしい。
 「with コロナ」って、一体どういう生活なのか、よく分からない。「without コロナ」を希望したいし、いずれきっと実現するだろう。 「新しい日常」ではなく、「古い日常」を期待していたい。それは有り得ないとネガティブ論者は言うだろう。しかし、何があっても、明日になれば、明日になれば、と生きていくしかないのではないか。「あしたのジョー」は永遠の真理なのである。

ジャーニー to 電動自転車爆走老人

 

コロナ後の世界で生き延びる道を教えよ①

 メルカリのツイートでフォロワーが急激に増えた。懐かしい学生達とも交流できるのはうれしいものである。ともかく、「人生いろいろ」島倉千代子であるが、みんな元気に頑張ってほしいものである。
 何とかオンライン授業も順調である。リアルタイム授業とオンデマンド授業の2つであり、前者は、ゼミ、ロー、法研において、早稲田のcollaborateでスタートしたが、zoomの方が使い勝手が良く、変更した。後者は、大講義の刑各において、EverLecで録画し、Moodleに登録し、授業開始の5月11日から配信を開始した。毎週月曜日に、週2回分を配信するわけであり、すでに、恐喝罪まで録画したから、7月6日分まである。「早すぎた録画の実現」かも。
 研究会はすべて中止であるが、今度「RJ研究会」をzoomで行う予定である。これまで、zoomの存在すら知らなかったが、いまや、「ズームイン朝」、否、朝は苦手であるから、「ズームイン昼」である。これはまさにコロナ効果であろう。
 また、前にも言ったが、クラス会ラインの活発化、とくに大学の方は、NHK朝ドラ「エール」の「紺碧の空」で盛り上がっている。肩を組んで大声で歌う、これが今後できるかは、論点である。
 さて、そろそろコロナも大丈夫かというオプティミストの私としては、早く大学に自由に入りたいものである。そして、大講義も、大教室での無観客講義をしたいのである。パソコンの前でチマチマしゃべって、パソコンの前で親父ギャグをぶっ放すことほど空しいものはない。しかし、無観客講義が可能となったら、これまで録画したものはどうなるのか。
 また、学期末試験の問題もあるが、この点はまだ未決定である。司法試験や予備試験は8月となった。会場や方法など大変なことだろう。東京ドームか、武道館か(笑)。「大きな玉ねぎの下で」はカラオケでよく歌う。「九段下の駅をおりて坂道を・・」、東西線「九段下駅」のメロディである。これは泣ける。
 今日の「天声人語」によれば、17世紀のペスト流行の時、自粛していたニュートンは「万有引力の法則」を発見したそうである。こちらは、研究がストップし、「パソコンの法則」を発見しただけである。「失われた春学期」とならないよう、何とかしなければならない。
 「コロナ後の世界」、これをどう生きるかをしばらく考えていきたいのである。

 ジャーニー to オフライン

コロナのまっただ中で犬死にしないための方法序説⑤

 前回も書いたが、コロナ自粛の結果、学部時代のクラス、小学校のクラスのグループラインが異様に活発化し、結構忙しい。学部時代はF2というクラスで、なんとフランス語が第1外国語というとんでもないクラスであった。個性的な連中が多く、みんな自由な青春を送っていたようであるが、弁護士3人、検事1人、判事1人、研究者2人、公務員数人、銀行員数人などなどおり、結局、みんな、なんだかんだ勉強していたのかもしれない。しかし、みんな、ほとんど独学に近いだろう。紛争で大学の授業があまりなかった時代だからしょうがないし、そもそも、中学生のとき以来、先生から学ぼうと思ったことはあまりなく、自分の好きな勉強を中心に、自分で本を読んで勉強するというスタイルが定着していたようだ。だって、目の前の先生より、夏目漱石、湯川秀樹などの方がすごいんだから・・・。
 ともかく、昔のことをとどまることなく語れるのは、素晴らしい。このあいだは、吉田拓郎やグループサウンズの話題である。最近は、行かなくなったが、以前、ゼミ生やロー生とカラオケに行ったとき、拓郎を歌ったら、それだれですか、ときたのである。その場で、射殺してやろうかと思ったほどである。同世代からはこんな質問は来ないのであり、我々にも青春があったのである。それを若い人にも分かって欲しいと思うのであるが、無理だろう。わが子ですらそうなのであるから。学生時代の写真を見せると、「過激派だったの」というわけである。
 まあ昔はどうのこうのと言っているようじゃ駄目だ。「コロナ後の世界」を考えなくてはならない。そうだ、次回からのタイトルは、「コロナ後の世界における生き延びる道を教えよ」にしようか。大江健三郎のパクりか。
 そのためには、研究会の2次会でよく行く、早稲田駅近くの「フォレスタ」で、コロナビールをみんなで飲むことが必要不可欠の要件となろう。
 
 
 
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